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蝉の鳴き声

ずっと断続的に雨が続いている。気温は25℃くらいと過ごしやすいものの、体調が重だるく、偏頭痛に悩む。

昨日くらいから、ふと蝉の鳴き声が聞こえるようになった。7月の頭なのに、もう蝉が鳴くんだな、と驚いた。まだ涼しく、雨模様であることも、違和感の理由なのかもしれない。

一年が半分を過ぎた。頑張っていると思う。ささやかでも、大事な変化をひとつずつ丁寧に繰り返している。

2019.7.6

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平成最後の日

平成最後の日は低気圧で弱り、朝から体調が悪く、ずっと眠っていた。目覚めたのは12時過ぎで、それから親と少しだけ会った。

雨と曇りとが交互におとずれる。何度か嘔吐を繰り返した。

平成最後の日。

平成、という言い慣れた単語が、その時代のあらゆるできごとや思い出や悲しみや怒りとともに、これからは日が経つにつれて遠ざかっていくことが、ほんの少し悲しく思う。

2019.4.30

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満月の夜、桜の開花

春分の日で、今夜は満月。東京では桜の開花宣言が行われた。

春の嵐のように風が吹き荒れていた。雨の予報だったものの、雨は降らず、暖かい春の風が吹いた。

昼に少しだけ両親と会った。

母の顔を久しぶりにちゃんと見て、ああ、年をとったな、と思った。

散歩でもいいから、動けるうちにちゃんとケアしないとだめだよ、と僕が言ったら、はいはい、と母は笑った。

父は移動で疲れたらしくベッドに横になっていた。

夜、イチローが最後の試合だった。ずっと好きな選手。『イチロー・インタビューズ』をよく読んだ。

イチローで思い出すのは、大学の卒業式。WBCの決勝の中継を友人のワンセグで、ときおり見ながら式に参加していた。

同じような学生も多かったらしく、イチローがあのタイムリーを打った瞬間、卒業式の会場がどよめいた。

そう言えば、あれも桜の季節だった。

2019.3.21

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レジ袋からはみ出る「長ネギ萌え」

僕が子供の頃に読んでいた好きな漫画の台詞に、「ニューバラ好きに悪いひとはいない」という先入観に満ちた名言があった。

ニューバラとは、スポーツシューズのメーカの「ニューバランス」のこと。

僕は、その台詞と出会って以来、不思議とニューバラを履いているひとに好印象を抱くようになった。

この言葉とちょっと似ているかもしれないが、僕自身、密かに「徒歩なのに長ネギを買うひとに悪いひとはいない」と思っている節がある。

徒歩で長ネギを買うということは、たとえ長ネギが鞄やスーパーのレジ袋からはみ出るとしても長ネギを買いたい、と思ったということである。

店員さんの判断や店の都合でちょっと短めのレジ袋を渡されたら、それこそ「へなへな」と倒れ込んでこぼれ落ちそうになる。

周囲からも、「あ、長ネギを買っているひとだ」と明らかにバレる。

その恥ずかしさを耐え忍んででも長ネギを買いたい、というひとに悪者はいないはずだ。

表面上は別世界に住んでいるように見えても、出来合いの刻みネギではなく長ネギを購入したいという想いがあるなら、きっと通じ合えるものもあると思う。

実際、想像してみると実感できると思う。夜道、信号待ちをしているとき、反対側の歩道で待っている今風の身なりの若者のビニール袋から、全然収まりきっていない長ネギの上半分が出ていたら、妙にほっこりするはず。

仮に僕が長ネギをレジ袋からはみ出しながら信号待ちをし、向こうも長ネギをレジ袋からはみ出しながら信号待ちをしている状況になったら、たぶん、僕はだいぶ照れ臭く、こそばゆくなる。

早く青になれ、とも思うだろうし、誰かこの状況を斜め上の角度から写真に収めてくれ、とも思うかもしれない。

そして、信号が青に変わってすれ違いざま、思わず心のうちで “長ネギですね” と会釈さえしてしまうかもしれない。

ふとツイッターで検索したら、「長ネギ萌え」という言葉があった。

数自体は少ないものの、リュックやスーパーのビニール袋から顔を出す長ネギにギャップを感じてキュンとなると言うひとがいた。

スーツ姿に長ネギ、という組み合わせがいい、と呟いている女性もいた。

長ネギは納豆にも合うし、お味噌汁にも合う。鍋やラーメンに入れても見栄えが綺麗で、かつ「長ネギ萌え」もある。

長ネギブーム、到来するかな。

2019.3.18

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高校の卒業

高校の卒業式だったのか、置かれた鞄から一輪の花が顔を出している制服姿の高校生たちが大勢いた。男子も女子も、追いかけっこをするように走り回っていた。

東京の卒業式というのは、一体どんな感じなんだろう。

田舎だと、結構卒業を機に「離れ離れになる」という雰囲気が強い。東京に上京するクラスメイトを筆頭に、地元を離れる人たちと、そのまま地元の大学に進学したり就職する人たちと、大きな別れの転機になる。

東京が地元の場合、大学進学とともに「上京」、という選択肢がない。都内の大学なら、一人暮らしをすることも少ないだろうし、馴染みの友人たちと離れ、家族と離れ、家と離れ、歩き慣れた故郷と離れる、というのが地方の「卒業」のひとつの形だとすれば、東京の卒業は、それほど「離れ離れ」でもないのだろうか。

その辺りは、「東京」という地域が宿命的に背負っているものなのかもしれないと、ふと思った。

東京に憧れられる、というのも、地方に生まれたものの特権なんだろう。

2019.3.16

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